2011年6月25日土曜日

正論と暴論の分水嶺

こんにちは。市川です。昨日の熊谷39.8℃は異常でしたね。

毎度思いついたことを述べさせてもらっていますが、、、

開かれた議論ということを考えるとき、“どのような意見でも一旦は外に発表され、そこで自由な議論がなされてこそ真理の発見につながる”という「思想言論の自由市場」という考え方を思い出します。

これこそ自由な議論を支える根幹部分といえるものですが、世の中には「誰が見てもこれはあまりにもひどい」という暴論が存在するのも確かです。

意見表明の自由というものが完全な相対主義に立脚するならば、正論と暴論の分水嶺あるいは言論的価値のヒエラルヒアということを語ることはタブーであり、ましてや「言論」NPOであれば尚更のことです。

どんな意見でも潰しにかかってはいけない。それなら、いわゆる「まっとうな意見」を増やしていくほかはありません。

単なるどなり合いを続けたり、「全部あいつが悪い」という話を始めたりした時点で知的な議論は終わってしまいます(そのほうが面白いとは思いますが…)。知的な議論をしようとある程度苦しむことが、「まっとうな意見」の醸成につながっていくのかなあと思っているところです。

2011年6月6日月曜日

日本の学生は本当に内向きになってしまったの?

こんにちは。インターンの市川です。最近気温の変化が激しく嫌な季節ですね(-ェ-)
前回の投稿まで時間があいてしまいましたので、連続の投稿です。


少し前の話になります。ある人が、米国の大学で、

「最近、学部でも大学院でも日本人留学生を殆ど見かけない。中国や韓国、シンガポールといったほかのアジアの学生はたくさんいるのに、これはどうしたことか」と言われたという話を聞いたことがあります。その人は、

「米国に行く学生が少なくなっただけで、アジア方面へ留学する日本人はたくさんいる」と反論したそうですが、ここ数年、日本人学生の内向き志向ということがほぼ断定的に言われているということは、周知の事実だと思います。

確かに、年間に海外へ留学する日本人はピーク時の8万3000人から1万6000人以上減ってしまったとか、半数以上の就活生が海外勤務をしたくないと答えたとかいうことが各種メディアでも言われています。しかし、単純な数をもって直ちに内向き志向というのは早計に過ぎるのではないかと感じます。

というのも、日本という国が低成長・借金増大・人口減少から抜け出せず、数々の不安要因が次々と生まれてくる中で、これからは何をするにしても海外への展開が不可欠だという認識はむしろ高まっているのではないかと思うからです。留学生の数は減っても(そもそも少子化で絶対的な学生数が減っているのでは?)、現地でどういう目的を持って、何をして、何を持ち帰るかという意識は母国が困難な状況にあるほど高くなるでしょうし、ある意味留学というものの質は上がってくるのではないかと思います(というかそう思いたい)。

ところで昨日、昨年度一緒に韓国へ研修に行ったメンバーで久しぶりに集まることができました。

中には現在留学中で一時帰国された方もいれば、これから留学を考えている方、海外経験の豊富な方も多く、ここでは書けないような会話(?)から将来の進路まで長々と話しましたが、私がこの方たちを立派だと思うのは、敢えて自分に困難を課して日本の外へと活動を広げていこうという向上心が余りにも高いからです。
海外志向が強い一方で、日本人としてこの国が今後どうなっていくのか真剣に考えている人が多いことも驚きました。海外で日本の政治状況が馬鹿にされているのを身をもって感じ、取り残されるという危機感をもっていると話す方もいました。

私は、日本の学生が内向きになったというのは必ずしも一般的にいえることではないと思います。「これではいけない」と自ら考え、国際社会における日本人としてこの国の将来と本気で向き合おうという人もたくさんいる。そこにあるエネルギーは必ず有為にはたらくと思います。

しかし、日本人を内向きにする要素が余りにも多いというのも事実です。誤解を恐れずに言えば、何もないところから秩序を作り出すのはそこまで難しいことではないと思います。それよりも、現在のように既存のしくみが制度疲労を起こし、蓄積物が混沌として存在する方が、秩序形成には却って妨げになるのではないでしょうか。そういう状況では困難山積だとあきらめたり冷笑的になるのではなく、むしろどんどん外向きになって困難山積だからこそ課題を解決するチャンスに恵まれているんだと言うくらいの開き直りがないと、やっていけないのかもしれません。

2011年6月4日土曜日

かんがえたこと

こんにちは。インターンの市川です。久しぶりの投稿になってしまいました。。。
三田に通うようになって2ヶ月になりますが、雰囲気のとてもいい町ですね。


ところで、教科書で見つけたある政治学者の発言ですが

「政治屋は取引と術数に長けて、煽動政治を好むが、政治家はビジョンを持って理性に訴える。これに加えて、政治屋が国民を政治の犠牲として利用する反面、政治家は自分を歴史の犠牲として捧げる。」

(特に今日この頃)いろいろと考えさせられる言葉だと思います。しかし、政治家(屋?!)の資質を問うだけではなくいよいよ国民の覚悟も求められる状況にあると考える方も多いのではないでしょうか。

震災から3ヶ月になりますが、多くの人々が粛々と国家再建のために働く姿を見るにつけ、私は、困難における日本国民の「強さ」、自ら公益を担おうという意識の高さは世界に誇るべきものがあると感じています。そこには、自分の運命を政治任せにはしないという覚悟も見えるような気がします。

「市民の強さ」を決して無駄にしないためにも、確実に変化を起こす議論を展開していかなければなりません。3ヶ月にわたる震災関連の議論も蓄積され、夏には(おそらく今までで最も歴史的な)北京-東京フォーラムもあります。皆さまのお力添えをどうぞよろしくお願いいたします。